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歴史ヒストリアで真田幸村が九度山脱出して茶臼山から家康に突撃するまでについて!?

time 2016/01/04

歴史ヒストリアで真田幸村が九度山脱出して茶臼山から家康に突撃するまでについて!?

関ケ原の合戦が終わり、真田昌幸と幸村は和歌山の九度山へ幽閉されるのでした。

真田家は九度山からどうやって大坂城へ参戦することになるのでしょうか?

真田昌幸と幸村の九度山での生活と、大阪での戦いとはどのようなものだったのでしょうか?

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真田幸村の九度山での幽閉生活

 

大阪から南に50㎞和歌山の高野山の麓の九度山には、真田の抜け穴と言われるものがあり、なんと、大阪へ通じているという伝承があります。また、九度山には六文銭の紋章が至る所に残されており、真田庵と言われるところがあり、井戸も残されているのです。

また、街の雑貨屋には、真田紐と言われる丈夫な紐があり、徳川家を倒すために、家臣が売り歩いたと言われているのです。幸村の英雄伝に満ちた九度山ですが、不遇の過ごした時代の場所でもあったのです。

真田家は上田城で徳川家を撃破し、徳川家に甚大な被害を与えるのですが、関が原で徳川家が勝利すると、天敵の真田昌幸・幸村父子を九度山へ幽閉することになりました。

 

真田親子が九度山周辺で期待されていた

 

しかし、無念にも、その地で、昌幸は死去することになるのでした。九度山周辺では、幸村の送った手紙などが残されていて、真田親子が、九度山で期待されていたことがわかっているのです。

高野山周辺では、実は、徳川家に反抗してきた土地柄であることで、周辺には、真田を応援する人々が多かったのです。幽閉生活が14年を越え、戦いから離れる中で、幸村の運命を変える出来事が起きます。

なんと、豊臣方から、幸村へ、西軍に味方するような文書が届くのです。このときに使ったのは、抜け穴?というのは違うようで、実際は、古墳の石室であるようです。

実際は、西軍に着くときに九度山を脱出できたのは、九度山の人々の協力で脱出できたのが真相のようです。真田十勇士が有名であるが、幸村に、癖のある勇士をまとめるような、期待と誠実なリーダー像を求めたものなのです。

 

大阪の陣での真田軍の活躍とは?

 

当時の武士は、「戦いで名を上げることができるならば死んでもいい」という考え方がありました。また、命よりも、名誉を重んじることが戦国時代の武士の考えでした。

また、戦いがなくなると、生きているのは武士として立派ではないという考え方があったのです。慶長19年、幸村48歳の時に、徳川軍が大坂へ迫ってきたのです。これが、世に言う、大阪冬の陣です。

そして、幸村達、西軍の武将たちには14年ぶりの戦いで、名を上げるには絶好の機会であったのです。当時の大阪城は、4重の堀で、街ごとを囲い込んだ巨大な難攻不落の要塞であったのです。

ここで、徳川東軍を打ち破れば、世の中の流れが変わる恐れがあったのです。天下の決戦であり、幸村たちの名誉もかかっていたのです。慶長19年1614年に、大阪冬の陣の火ぶたが切られました。

 

塙団右衛門の活躍

 

徳川東軍20万に対し、豊臣西軍10万で対決することになったのです。牢人たちは、生き生きと戦場を駆け巡るのでした。中でも、目立ったのが、塙団右衛門で、彼は、大阪城を囲んでいた徳川の陣地に夜襲をし、100人以上打ち取る活躍を見せました。

引き上げるときには、夜討ちの大将・塙団右衛門という木札をばらまくのでした。しかしながら、あくまで、個人の戦いでは、徳川家に大きな被害を与えることにはならなかったのです。

 

徳川東軍に被害を与えた作戦とは?

 

現在の大阪には、真田山という、場所があり、今は、真田山小学校などもあって、校章には、六文銭が採用されています。ちなみに、この真田山小学校のある場所は、真田丸が築かれていた高台に建てられたとされているのです。

幸村が、真田丸を築いた場所が、大阪城の最南端の4重の堀の更に外側で、まさに最前線に砦を築いたのです。徳川の攻撃を一番受けてしまう場所にあったのです。ここで、兵力5000を持って、徳川軍に対峙しました。

ここへ、6倍の3万の兵力で徳川東軍の主力部隊が押し寄せたのです。幸村は、真田丸から、更に外側の高台に少しの兵力を出しては、鉄砲隊で攻撃を行なったのです。この高台へ徳川軍が攻め入ると、兵を撤収し、真田丸の砦から罵声を浴びせたのです。

この挑発に、業を煮やした徳川東軍が一挙に真田丸に突撃を行ないました。すると、幸村の合図で、一斉に鉄砲の集中攻撃を食らわせ、徳川東軍を叩くのでした。おびきよせて叩く戦術は、幸村の得意な戦い方でした。

そして、徳川東軍は、この真田丸攻略で、大損害を出したのでした。しかも、徳川東軍の討ち死にした8割は、なんと、真田丸で討ち死にしたものであったというのです。その後、開戦より1月後に徳川・豊臣で和睦が行われることになりました。幸村たちは、大坂城を守り抜き、一矢報いたのです。

 

大坂の陣で幸村軍が赤備の鎧に込めた覚悟とは?

 

和睦した後に、口約束で交わした堀を埋めるという言葉が窮地を招くことになります。なんと、大坂城の堀が埋められ、幸村の真田丸も破壊されたのです。堀が埋められたことで、豊臣家の将来を危ぶみ、牢人たちは多く立ち去るものがいたというのです。

幸村も、徳川家康より、大坂城を離れ、徳川に味方するように誘いを受けるのでした。一説には、10万石を与えると、声がかかったともいわれているのです。しかし、それを拒み、戦いの中で、名誉を残す道を選ぶことになります。

大阪の陣で、幸村は自分の配下の牢人に、皆赤い兜や鎧を着せ、旗も、赤に揃えたのです。莫大な費用がかかったと言われます。赤備は、誉の色で、勇者の色です。赤にすると目立ち、死を覚悟する勇者の色だったのです。そうすることで、真田軍は一体感を強めるのでした。

 

大坂夏の陣で伊達政宗VS真田幸村

 

慶長20年1615年に、大坂夏の陣が始まります。大坂の南の方から攻めてきた徳川東軍15万に対して、豊臣西軍数万は、城の防衛が期待できないため、大坂城より、南の方10㎞以上の場所で戦うことを余儀なくされます。

そこに、強敵が現れることに!なんと、東北より参戦した、独眼竜の伊達政宗が1万以上の兵力で、大量の鉄砲隊を率いてきたのです。そのため、豊臣西軍は次々と敗れていくのでした。

そこに、真田幸村3000の精鋭部隊が登場し、伊達軍を10キロ以上後退させる戦いぶりを見せるのでした。伊達軍を押し返したのでしたが、豊臣方は敗れていたため退却することになりました。そんななか、娘を伊達政宗に預けることになります。先がわかっていたのでしょうか。

 

徳川家康に3度の突撃

 

そんな時、茶臼山に陣を敷いた幸村は、家康に狙いを定めることに決めます。東軍西軍が総当たりする間に、別動隊で家康を叩く作戦だったのです。しかし、作戦がくるってしまい、仕方なく、真田幸村軍3000で、家康に総攻撃を直線的にかけたのです。

3度の突撃で、家康を追い詰めたのでしたが、そこで、鉄砲隊の一斉射撃を食らい、ぎりぎりのところで、家康を倒すことができなかったのです。その後、茶臼山の地で死ぬことになります。その後、大坂城は落城したのでした。幸村の伝説的な活躍は、世に語り継がれているのです。

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(まとめ)

 

真田山は現在では、閑静な住宅街です。そんなところで昔に大きな日本の将来を左右する戦いが行われていたと思うと、胸が熱くなりますね。幸村の突撃を誰も食い止めることができなかったのは、その覚悟と、勢いを感じます。

徳川家康も、死を覚悟したということです。天下人を苦しめた真田幸村、その勇士を日本の誇りとしたいです。そして、日本人の誇りを感じますし誇りを持って生きていきたいですね。

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