2017/03/15
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武田家が織田信長に侵攻される
織田信長が武田領に侵攻し、武田領の西の守備の要でした。そして、武田の家臣だった木曽義政が織田方に寝返り、武田勝頼がピンチの状況になってしまうのでした。
そんな中、西の守りを心配する中で、家臣の真田昌幸は南の守備が心配だと言いました。また、次男の真田信繁も南が心配だと兄に言います。そんな中、真田の家族の話し合いで、武田家は滅ぶぞ、という真田昌幸の言葉に息子が驚くのでした。
家臣が更に寝返る
家臣の穴山梅雪が突如武田家に寝返り、徳川を領内に迎え入れたとの報告を受けます。激怒した武田家でしたが、真田昌幸が武田勝頼に、かねてから守備をしていた、岩櫃城へ来るよう説得し、武田勝頼を迎え入れる話になりました。
岩櫃城へ行くのか?
しかし、武田家の側近が真田昌幸は北条氏とつながっている噂を話し、決断を止めることになります。 そして、武田勝頼は、甲斐の新府城から、真田家の人質の家族を開放することにするのでした。
そして、真田家は岩櫃城へ移動を開始します。そして、新府城を引き払うことになるのでした。
武田勝頼の手勢が減っていく
別の拠点へ移動する最中にも、手勢は600いたのですが、気づけば100余りになりました。武田信玄亡き後、窮地に立たされた武田家でしたが、家臣の裏切りが相次ぎ移動するところでも、更に家臣が寝返り、関所から通る道を防がれることになりました。
そこから、武田勝頼はどこともなく再び彷徨うように引き返すことになるのでした。
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(まとめ)
武田信玄亡き後の武田家の滅亡までの様子は、有力人物がいなくなった後の国の衰退ぶりを鮮明にしています。下剋上の世の中で、まさに強いものが勝つ世の中の過酷な厳しさをまざまざと見せつけられる思いがしました。
武田勝頼の判断も家臣の進言などで迷わされ、結局は、真田家を信用できずに、それが滅亡の一因になったのです。武田信玄がいる間は、織田信長も手出しできなかったのに、信玄がいなくなると、すぐに甲斐の国が狙われることになったのは、戦国時代の常なのかもしれないですね。
また、武田の騎馬隊が織田の鉄砲隊に撃破されたという歴史も、一つの戦国時代の転換期でもあるのでしょう。