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歴史秘話ヒストリアで衝撃事実!真田昌幸の秘密兵器真田忍者が存在した?上田城で家康を苦しめた秘策まとめ?

time 2016/01/04

歴史秘話ヒストリアで衝撃事実!真田昌幸の秘密兵器真田忍者が存在した?上田城で家康を苦しめた秘策まとめ?

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真田家の居城とは?  

 

長野県上田市に、真田神社があります。境内には、なんと直径1.5mもの大きさの真田兜があります。  額には、真田家の家紋である、六文銭が付いているのです。   何故六文銭が付いているのでしょうか?  

六文銭とは、1文銭が6枚付いており、死んだときに、三途の川を渡るときの渡し賃と言われるのです。  それは、つまり、いつでも死ぬ覚悟があるという証であるというのです。まさに真田家を象徴する家紋と言えますね。

 

 

真田昌幸の意外な評価とは?  

 

しかし、そんな勇猛な真田軍の当主・真田昌幸に対し、豊臣秀吉は、あいつは信用できないと言っているのです。 石田三成は、あいつは卑怯者だと良くない評価です。

徳川家康も、あんなずるい奴は見たことが無いというみんな良くない評価なのです。  「戦国一の食えない男」と言われた、真田昌幸の戦国時代の生き残り術とはどういうものだったのでしょうか?    

 

真田昌幸の仰天生き残り術とは?  

 

真田昌幸は、天文16年1547年に、長野県の上田の武将の3男として誕生します。  当時の真田家は、群雄がひしめく中に領地があったのすが、周辺には、村上、小笠原、大井、諏訪氏がいました。  

そこで、互いに領土を奪い合っていたのです。  昌幸の父は、当時、周辺で大きな勢力を誇っていた武田信玄の配下となるのでした。  7歳の昌幸は、武田家の人質に出されることになります。  

その後に武田信玄の配下として取り立てられて、数々の戦果をあげることで出世し、  28歳の時天正3年1575年に、真田家の当主となるのでした。  しかし、7年後の天正10年1582年に主である、武田家が鉄砲隊により滅ぼされることになるのでした。  

武田家が滅亡すると、徳川家康、北条氏政、上杉景勝が武田領を侵犯するのでした。  そこで、真田昌幸は、真田家の領地を守るために、勢力拡大中の徳川家康の配下になるのでした。  そこでは、厳しい現実が待っていたのです。  

 

厳しい現実とは?  

 

家康より、昌幸にある要求が出されることになりました。  その内容とは、真田昌幸が所有している沼田の地を徳川家に渡すように要求するものであったのです。  それは、真田領の東側に位置していて領土の半分を渡せと言うものでした。  

北条と同盟を結んでいた家康は、同盟の条件で、沼田の地を渡す約束をしていたのでした。  昌幸は悩んだ末にある決断をするのです。  それは、家康の配下であることを辞めて、上杉家に寝返ることであったのです。  これにより、徳川家康は激怒し、稀代の横着者(うそつき)と罵るのでした。    

 

徳川家康が真田昌幸討伐軍を編成進軍させることに!  

 

天正13年1585年に、真田昌幸を討伐すべく動き出します。  家康は、真田一族を皆殺しにするという、激しいものでした。  徳川軍は7000の兵力で上田城へ進軍してきました。  

このとき、真田軍は2000の兵力で上田城を守ることになりました。  3倍以上の徳川軍を相手に、窮地をいかに乗り切るのでしょうか?  真田昌幸は挽回するための秘策を用いることになります。  

真田昌幸が考えたのは、地形を用いて敵を破ることでした。  当時、城の南側には、切り立った崖と、千曲川が流れていたので、  攻められない形をしていたのです。また、城の北と西には、広い沼地があり、それを掘って、堀を作ることで、  北・西・南から攻めてこられないようにしたのです。  

そのため、敵を東に誘い出す作戦を取ったのでした。    

 

徳川軍7000が上田城攻撃開始!  

 

8月になり、上田城に攻め入ってきた徳川軍は、昌幸の予想通り、東から攻め込んできたのでした。  城の外で迎え撃った、真田軍は、徳川軍が来ると、すぐに退却を始めたのです。

逃げ出したと判断した徳川軍はこのまま東から西へと行って城の方になだれ込んできました。  しかし、このとき、思いがけないことが起こるのです。なんと、城壁から大量の大木や、石が落ちてきたのです。  

昌幸が事前に準備していた作戦だったのです。そして、鉄砲を一斉に射撃して追い打ちをかけます。  大損害を被った徳川軍は、急きょ撤退を始め東に撤退を開始することになりました。  

しかし、進路を柵で防がれており、撤退ができない状態になり大混乱することになります。  すると、動きの取れない徳川軍に四方八方より攻撃を加える真田軍。  これにより、徳川軍は、甚大な被害を出し1300もの兵力を失って退却することになるのでした。    

 

長期の戦いができない真田家はどうする?  

 

上田城を長期間守ることはできないと判断した真田昌幸は、  当時最大の勢力を誇っていた豊臣秀吉の配下になることになります。  これにより、徳川家康が真田軍に手出しをすることができなくなったのです。  

悔しがる家康のもとへ、真田昌幸より使いが来て、長男の信之を家臣にして欲しいと願い出てきたのです。  同時に、次男の幸村を豊臣家にも家臣として送っていたのです。  こうすることで、豊臣家の保護のもと、徳川家とも誼を結び、真田家の地位を確保したのです。    

 

真田昌幸には秘密兵器の真田忍者がいた?  

 

真田昌幸には秘密兵器があったという事実をご存知でしょうか?実は、戦の前に、忍者を使って情報を収集したり、  敵を攪乱したりし、勝利につなげる、忍者の存在の跡が残されているのです。  

真田領にあった、真田忍者の痕跡が現在も残されているというのです。  昌幸に仕えた、忍者である唐沢玄蕃の墓が残されているのです。  敵地に潜入するのが得意だったので、あるとき、敵城に潜入し、敵を焼き払いました。  

そして、もう一つの中山城に入った時に、金の装飾を施した馬よろいに見とれ、任務を忘れて持ち帰ったというエピソードが残っているのです。  真田忍者は、意外とお茶目な一面があったという逸話です。

真田丸の出城は餌差町の心眼時周辺であったことが明らかに!   

真田幸村が九度山脱出して茶臼山から家康へ突撃するまでについて

 

真田忍者の関連ツイートの紹介

 

 

(まとめ)

 

戦国の乱世を生き抜くことは想像に絶するものであったと思います。しかし、天才的な采配ができた真田昌幸はあらゆる手を使い、生き残ってきたのです。少ない兵力で大軍を退けるのってすごいことであると思います。

古の韓信、諸葛亮、源義経、楠正成、皆人気がありますよね。古来より、劣勢の軍に勝利を導く人物は神のように尊敬されていますよね。真田昌幸もその一人です。素晴らしい生き方であると讃嘆するばかりですね。

策略、戦略など、ゲームでよく目にするのですが、現実は甘くなかったであろうと思います、言う事を聞かない者、勝手に出撃する者など必ずいたことでしょう。また、喧嘩する者、場を乱す者など。それを、まとめて一つの動きをさせるには、指導力、統率力、様々な人間力が必要になったのではないでしょうか。        

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