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歴史ヒストリアでもう一つの真田丸と大型銃と出城の場所は餌差町の心眼寺であることが明らかに!?

time 2016/01/06

歴史ヒストリアでもう一つの真田丸と大型銃と出城の場所は餌差町の心眼寺であることが明らかに!?

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真田丸の真の姿とは?

 

歴史ヒストリアで、真田丸の真の姿が明らかになります。出城の部分は心眼寺であることが明らかになったのです。今回、戦後の焼け野原を米軍が航空撮影をした写真を解析し、実際に真田丸がどのような形で具体的にどこにあったのかが明らかになりました。

たった1日の戦いで徳川関東軍1万以上の損害を出した無敵の要塞の真田丸の実像が明らかになったのです。現在はビルが立ち並び、姿は分からない真田丸ですが、その歴史を紐解きながらその実像が明らかになって行きます。

 

大阪冬の陣で真田丸が大活躍する

 

慶長19年1614年10月に世に名高い、大阪冬の陣が始まったのである。天下を手の中に収めた徳川家康が、全国に号令をかけて、全国から軍が終結し、徳川関東軍20万の大軍が一挙に大坂城に進軍してきたのです。

対して、豊臣秀吉の亡き後を継いだ、豊臣秀頼が当主として号令をかけ、軍が終結し、豊臣西軍は10万の兵力でこれを迎え撃つことになったのです。徳川軍な有利な状況であったのです。

しかし、大坂城の南東部に、5000の兵が立てこもる砦ができていたのです。そして、徳川軍に、一日で15000の損害を出したのです。その砦こそ、真田幸村が作った「真田丸」です。

 

真田丸の場所はどこにあったのか?

 

真田丸の砦はどこにあったのでしょうか?大坂の陣を記した大阪御陣覚書と言う書物に、真田丸の場所と規模が書かれているのです。記述では、真田丸は大阪本城の巽の方角にあり、百間四方の出丸である、と記されているのです。

つまり、大坂城の南東部にあり、その大きさは、180m四方で、学校のグラウンドの大きさほどの規模なのです。しかし、真田山、玉造、三光神社など、さまざまな真田丸があったとされる場所がある中で、今回、専門家が調査に入り、実際に「真田丸」のあった場所を2015年7月に具体的科学的に調査をしたのです。

 

電磁波を使って地質調査で真田丸の実像を調査する

 

そこで、地中に電磁波を出して、その遺跡の状態を調査したのです。しかし、真田山地区を調査すると、それらしきものが見つからなかったのです。調査を周辺に拡大して調査を実施しました。

すると、真田山近くの餌差町の地下の調査で大きなくぼみを発見し、明星中学校・高校の周辺であることが明らかになったのである。すると、真田丸の実際の形は四角い砦だったことが明らかになったのです。

 

真田丸の絵図が発見される?

 

過去の江戸時代の広島藩の絵図に、四角い真田丸の絵図が残っていたのです。大きな四角い陣地に北側中央部に丸い範囲があり、南は堀があり、東西は高い斜面になっていたのです。

真田丸の北東部が心眼寺であり、明星高校の敷地が丁度真田丸の中に当たり、その南に位置する道都を隔てた一角が丁度「真田丸」の南の堀であったことが明らかになったのです。

 

真田丸の勝利の秘密とは?

 

例え真田丸が強固にできていても、5000の兵力で数万を相手にすることは非常に厳しかったのではないでしょうか?そこで、その強さの秘密を紐解いていくのです。実は、真田丸の中には、寺が以前よりあり、その寺を居場所にしていたと考えられるのです。

また、真田丸周辺は市街地であり、建物が、真田丸の南側にあったのです。そして、罵声を浴びせられて激怒した徳川軍は、一斉に真田丸に押し寄せるのですが、実際には、寺と寺の間の道を抜けていったのです。

少しずつしか進軍できず、市街地を抜けた瞬間に、堀になっており、先発隊が、後ろの兵に押されて、堀に落ちて、そこから、堀を通って真田丸に接近するところで、真田丸より一斉射撃を受け全く歯が立たなかったというのが、実像のようなのです。

なので、大軍が動きにくく、攻めても少しずつしか接近できない状態で、そこを真田幸村が巧妙に叩いたのです。

 

人質として過ごしてきた真田幸村が秀吉に出会うことに

 

天正15年1587年に、真田幸村(信繁)は人質として大坂へ送られることになったのですが、そこで、豊臣秀吉に出会うことになるのでした。人質のため、肩身の狭い思いをすると思っていたのですが、秀吉は、人質を家族のように扱ってくれたのです。

真田幸村は、秀吉から、「大坂城を我が家と思って過ごせ」と温かい言葉をかけてもらい、豊臣の姓まで与えられ、大名として遇される扱いを受けることになります。真田幸村にとって、大坂は第二の故郷になったのです。

 

秀吉の晩年に豊臣秀頼が誕生することに

 

秀吉から秀頼を頼むとお願いされることになります。関が原から幽閉生活になるのでした。慶長5年1600年に関ヶ原の戦いが起き、このとき、真田幸村は、長野県上田城で、徳川軍別動隊を足止めする活躍を見せることになるのです。

しかし、西軍は敗北し、結果、激怒した家康を真田幸村は和歌山県九度山に幽閉することになります。14年の歳月が流れることになるのでした。大坂冬の陣が始まることに豊臣秀頼は真田幸村へ参戦を呼びかけることになったのです。

 

真田幸村が九度山を脱出

 

九度山から脱出し、大坂城へ合流することに、そこで、「真田丸」を築いたのです。しかし、それは、敵を引き付ける最前線の出城であったのです。歴戦の猛者である20万の徳川軍を相手に5000の兵力でいかに戦ったのでしょうか。その具体的戦法が明らかになるのです。

 

徳川軍のモグラ作戦とは?

 

銃撃を受けないようにするための塹壕をつくり、真田の銃撃を防ごうとしたのです。また、徳川軍は小山を築いて、火縄銃の有効射程圏内に作り、真田丸を攻撃したのです。

しかし、疑問が?なんと、航空写真で明らかになったのですが、この射撃する小山より遠くにも塹壕が作られていたのです。その理由は、真田幸村の大型銃の存在です。

 

真田の大型銃とは?

 

歴史の絵図で、真田丸の射撃種が3人固まって場外を攻撃する様子が描かれており、なんと、それが、大型銃を使っていたというものなんです。大型銃の射程距離は、なんと300mもの有効射程距離を持っていたというのです。

なので、小山を築いても、普通の火縄銃の倍の大きさの大型銃で狙い撃ちにされたということがわかってきたのです。そのため、真田丸の周辺の徳川陣地では、塹壕をたくさん掘って、真田の銃撃を受けないようにしていたことがわかりました。そのため、攻めるに攻めれない現状が続き1か月も膠着状態になってしまったのです。

 

徳川家康が大砲を使用

 

イギリスに注文して家康が大砲を使用し、大坂城の本丸が破損し、恐怖におののいた淀殿が和睦することになって大阪冬の陣が終結したのですが、家康は条件として、大坂城の堀を埋めることを要求したのです。

 

大坂夏の陣始まる

 

慶長20年5月に、大坂夏の陣が起きます。再度徳川軍が押し寄せてきたのです。このときに、真田丸もなくなり、堀も埋められた真田幸村であったのですが、なんと、真田幸村が家康の目の前に陣を敷くことになりました。

それは、茶臼山を要塞にして、大軍をやり過ごした時に一斉射撃を行い、茶臼山陣地の西側から、丸馬出しと言われる、騎馬隊を出す廓を準備して、そこから、別動隊の騎馬隊で徳川本陣を狙うという考えを持って戦いを進めたのであったのです。

しかし、戦いに焦ってしまった毛利隊が、茶臼山より南側で戦い始めてしまい、結果、真田幸村は、茶臼山に立てこもる利点を失い、そのため、一斉に、徳川家康本陣に突撃をしたのです。

結果、家康を2度も自決しようと覚悟させるほど追い込んだのですが、徳川軍の精鋭が、押し寄せ、幸村は敗れるのです。そして、茶臼山の近くの、安居神社の松の木で戦死したのです。

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(まとめ)

 

豊臣秀吉の恩義を感じたからなのか、徳川が憎かったからなのか、信義に生き抜くその精神と、その勇気を日本男児は見習うべきかもしれませんね。西軍に真田ありという存在感を見せつけたのは立派であると感じます。

そして、類まれに盛る勇者がいたことを誇りにしたいと思うのです。しかし、茶臼山の戦いでも、戦いの進み具合によっては、真田幸村が勝っていたかも・・・なんて考えてしまいますよね。しかし、歴史は徳川家康に勝利をもたらしたのです。でも、その輝きは今も色あせないのは何故でしょうか。

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