2017/03/15
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内容一覧
震源は遠くても影響は大きかった
2011年3月11日に発生した東日本大震災は未だにその被害に悩まされている人が多くいらっしゃいます。
私は当時東京にいました。職場が大きくそして長い時間揺れました。あんなことは初めての体験です。自分がいるビルが倒れるのではないかと怖くなりました。東京23区は震度5強もしくは5弱だったようです。
尋常ではない揺れがおさまりとりあえず外に避難しようということになりました。外に出たものの私も含めて皆動揺を隠せません。そうしいるうちに余震が発生しました。
これもかなり揺れました。勤め先が入居するビルを見た私は、唖然とします。10階建て程度のビルがしなるのです。建物がしなるなんて驚きでした。
人がパンチをくらわせようが蹴りをいれようがビクともしない建物が柔らかな動きを我々に見せつけているのです。とても怖い、その一言でした。
揺れが治まってからのこと。<帰宅困難>
被災地の方々からすれば私の体験など比較にもならないものと思いますが、それはどうかお許しいただきたいと思います。
その日の仕事は打ち切ることになり、それぞれ帰路につくようにと指示がありました。私の自宅は歩いても通える位の距離にあったので、テレビ放送を見ながら各地の営業所から入ってくる問い合わせなどの対応にあたっていました。
職場のあるビルの前は幹線道路なのですが、ふと気付くとひどく交通量が多くなっていたのです。車がまったく動かないということはありませんでしたが、それでもノロノロ運転の列が長く続いています。
夕方も過ぎ暗くなるにつれて歩行者も多くなりました。交通機関がマヒしいていることは知っていたのですが、車の列は都心に向かう方、離れる方のどちらも、そして人の列は都心から離れる方へ延びています。そう、帰宅困難の発生でした。
揺れが治まってからのこと<計画停電と節電>
それから3日くらい経った後でしょうか、計画停電という聞きなれない言葉を報道などで知ることになりました。
停止した発電所が多いということが影響して電気の需給バランスの崩壊による大規模停電を回避する為の措置として、計画停電が実施されました。
これが行われたのは夜間です。照明が灯る時間帯が最も消費電力が多いのでしょうから、やむを得ないところですが停電の輪番となった地区の方は苦労されたことと思います。
計画停電とは別に、節電の必要を呼びかけられた為、それぞれができる限りの取り組みを行います。ネオンは消えてしまい、しばらくの間東京は暗い街に変貌したのです。
当時の職場は昼間でも照明を点けていないと少々薄暗いので常時点灯が当たり前でしたが、出来るだけ消灯することに努め、残業も控えるようにしていました。
大地震が起きても他人事だと思っているのではと、感じたこと
翌月に私は仕事の関係で愛知県の方へ移動したのですが、ふと思ったのは地震に影響を受けていないのかなということです。
もちろん、3週間以上経過してはいますが、東京の暗い雰囲気とは違って普通の日常なのだなという印象を当時持ったのです。
そして、あれから5年経過した2016年4月のことです。熊本と大分で大きな地震が発生しました。
47都道府県と20政令指定都市で目標となる食料3日分を備蓄している割合は約3分の1とのこと(読売新聞2016年6月8日)でした。
世帯で備蓄している割合は全国平均47.4%、九州では24.6%との報道(日本経済新聞2012年12月6日)があります。
阪神淡路大震災、中越地震、そして東日本大震災、それら以外のでも大雨や洪水といった酷い被害事例を経験しても、明日は我が身と重大に受け止めていない人が多いと言っても仕方ないのではないでしょうか。私はそう思っています。
(まとめ)
中央防災会議等がまとめた「南海トラフ巨大地震対策について(最終報告)平成25年5月」の中で、「家庭備蓄を1週間分以上確保するなどの細かい具体的な対応を推進する必要がある。」との記述があります。
東日本大震災の時に私はコンビニからミネラルウォーターが消えた場面に遭遇しました。東海・東南海・南海の3連動巨大地震が起きたら、北海道でもミネラルウォーターが買いづらくなるといったことも起きるかも知れません。
「自分が住んでいる所で大地震が起こるとは思わなかった。」
「震源でもないのに停電になったり物が買えなくなったりするなんて。」
もうそのようなことは言えない時代になったのではありませんか。そして、起こった時に国や自治体、あるいは企業や一般の方々がすぐに支援してくれると安堵してもいけません。皆が自ら備えをしておくことが大切です。