2017/03/15
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3・11大地震が起きたその時
大地震が起こった当日私は……。
忘れもしない5年前の2011年の3月11日、午後2時46分、私はその時東京池袋のサンシャイン60の
58階でコールセンターの仕事をしていました。確かお昼を食べ終え、だらだらと仕事をしていた時です。
突如下から突き上げてきたかのような、振動が襲ってきました。
突然の地震にオフィスから様々なところから悲鳴が聞こえてきました。
そして「机の下に隠れてください」という怒声でようやくみんな机の下に隠れました。
館断続的に繰り返される横揺れの度に、私はサンシャイン60のビルが崩壊してしまうのではないかと
いう錯覚さえ覚えたのをよく覚えています。
終わったかと思ったらまたくる横揺れに、恐怖を感じざるを得ませんでした。
ようやく横揺れが終わり、机の下から出てきた人は口々に「大きかったねー」という何事もなかったと
いう安堵感がオフィスを包んでいまいた。
地震の余波
しかし、30分ほどたったときマグニチュード9、そして津波が東北地方を襲ったという情報が伝わりました。
すると誰もが廊下に飛び出し携帯電話で家族と連絡を取り合っていました。安心している人もいれば、
廊下で崩れ落ち泣きだしている人もいました。私は改めて東北に家族がいる人が多いことを知りました。
結局、一時間ほどオフィスで待機させられた結果その日仕事はなくなり、
派遣の私たちはサンシャイン60に残るかそれとも下に降りるかという選択を迫られました。
私は下に降りることを選択しました。
まだその時私は、まさか家に帰れないことはないだろうという高をくくっていました。
帰宅困難
エレベータが停まっていたため、階段で一階まで下りることにしました。
一階まで下りてからとりあえず最初に東池袋駅に行きました。
タクシーを待つ列は見たこともないくらい並んでいます。
とにかく電車が動いているのか、動く予定があるのか分からなかったからです。
しかしどうやら動く予定はなさそうでした。次に池袋駅に向かいました。
東武鉄道でももちろん、動くかどうかわからずに、駅には様々な人が地べたに座っていました。
私は親から留守電があったのを思い出し、電話をしました。親は私の声を聞いたとき安心したようで
した。その後ボーっと仕方なく私もいつ動くかもわからない電車を待つことにしました。
その時でも私はまだ、私鉄か地下鉄のどちらかは動くだろう。と思っていました。
3時間ほどたち本を読むのにも飽きたので少し歩くことにしました。何か食べようと思い駅を出てコンビニへ向かいました。
夕飯がおにぎりを三つと念のため菓子パンも二つほど買っておきました。
再び地下鉄の改札で駅員に電車は動くのかは聞いてみたが、やはりまだ分からないとのことでした。
仕方なく、近くのベンチで時間を潰すことにしました。
午後22時くらいだったでしょうか。
地下鉄は運航を止めることが電光掲示板で表示されます。
私は仕方なく私鉄乗り場に向かいました。そしてほどなくして私鉄も運航の禁止が発表されてしまいました。
もう少し早かったら、漫画喫茶に行くという選択しもあったでしょうが、すでに遅いという確信を
持っていました。
始発まで7時間ほどどうしようかと考えていたとき、親からのメールに気付きました。
大学という避難場所
どうやら、大学が無料開放しているとのことでした。
池袋にある大学に私は向かいました。
ボランティアの学生たちが私を誘導してくれ、水と缶パンをくれました。
案内された大教室の大型スクリーンでNHKのニュースが今日起きたニュースを絶えず流してしました。
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(まとめ)
東日本大地震の時は世の中がどうなってしまうのかが不安でした。原発の問題など、今後日本は住めなくなってしまうのかと、危機感を覚えました。でも、ようやく落ち着きを取り戻しました。でも、大地震はいつどこで起きてもおかしくはないです。避難できる準備を常にしておかなくてはなりません。